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震災後(2)忘れない

(その2)
 部長は家に帰らなくてもいいんですか?と部下に聞かれる度に、家に帰っても都市ガスが復旧していないから風呂にも入れないし、新幹線も在来線もまだ不通だから一旦仙台に帰ると次に古川まで来るのに苦労するから別に帰らなくてもいいんだと答えている。自家用車のガソリンも残量が少なくてあと一往復できるかどうかということもあるが、それよりも何よりも、家に帰ってもくつろいだ気分になれないことの方が、実は大きい。
 被災後、1週間経って石巻に行かせてもらい、そこで見た惨状が忘れられない。海沿いは何もかも価値あるものは全て破壊されていて無残だった。むかし馴染んだ町が跡形もなくなくなっているのだ。
 あの惨状を目の当たりにしたら誰だってちょっと疲れたとか休みたいとか申し訳なくて口に出せない。一瞬にして何もかも無くしてしまった人たちのことを思うと休めない。休んじゃいけないとさえ思ってしまう。すぐそばにそんな悲惨な状況が横たわっていることに強い衝撃を覚えたし、日本人全員に東北太平洋沿岸の被災地を見てもらいたいと思う。見た上でこれからの復興について議論してもらいたい。

 同じ宮城県に住んでいても、同じ仙台に住んでいても被災地とそうでない土地に住む人々の意識には、残念ながら大きな差があるように思う。2週間が経ち被災していない地区では普段の生活が徐々に戻ってきており、もうスーパーの店先に並ばなくても食料品は手に入るようになった。車のガソリンだけはまだまだ入手困難で仙台市内でも、大崎市までの国道沿いでも開いているスタンドはどこもかしこも長蛇の列が出来ているが、このガソリン事情さえ解消されれば物流も一気に動き出し、普段の生活に戻れるような気分になるが、しかし、そうなると宮城県民でさえ今回の被災をよそごとに感じてしまう人々が多数を占めるのではないかと不安になる。
 つらい事が多い世の中だから「忘れる」ということは非常に大切な生きる術だと思うが、しかし、今回の大震災は忘れてはならないことだし、次の大津波(千年先かもしれないが)に備えて行動をしていかなければならないと思う。
 いや、千年先ではなくて数年のうちにも東海地震や東南海地震、南海地震が起こる可能性が以前より取り沙汰されているのだから、それらが連鎖的に発生したら今回の東日本巨大地震並みの大惨事が引き起こされることは、過去の歴史が教えている。だから、西日本は早急にこれまでの対策を見直さなければならない。地震を感じたらとにかく高台に逃げろ!それが一番の、唯一の方法だという笑えない話には到底納得できるものではない。

 高さ10mの巨大堤防でさえ乗り越える今回の大津波にどのように対処すべきか。浅知恵を働かせれば、標高15m以上の地点に歩いて逃げるのに10分以上かかる沿岸の集落には6階建て以上の堅牢な建物を立てておくことが有効ではないか。何百年に一度の津波に対処するために何百億円もかけて防潮堤を高くするよりも費用対効果が高いのではないかと思う。
 沿岸部には平場が少ないので1,2階を駐車場にしてそれ以上を役場の支所とかコミュニティセンターなどとして利用してはどうか。平時には不便でもなぜ不便なのかということを、不便を感じるたびに思い出すことが出来るのではないか。それが津波の恐ろしさの継承につながるのではないか。とにかく忘れないことが一番大事なことだと私は思う。

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震災後(1)一週間

 平成23年3月11日の大地震発生後は、大崎市古川にある職場に詰めていたので、ブログの更新もままならなかった。また、近くに一人で暮らす義母を助けよう、エネルギーを無駄にしないようにと震災後は家族が義母宅に居候しているので、たまに仙台に帰ってもネット環境にないためブログが更新できなかった。
 久しぶりに休日をもらい自宅に戻ったので、その間に見たこと、感じたことをいろいろ書いてみたいが、長文になると思うので何回かに分けてアップしたいと思う。

(その1)
 3月11日の大地震のときは仙台の本社で会議中だった。強く激しい横揺れに全員が立ち上がったが誰もまっすぐには立っていられず多くの者がテーブルにしがみついた。私は壁に背を押しつけて両足を広げて踏ん張り、天井が落ちてこないかと上ばかり見ていた。
 長い長い揺れがようやく収まり14階の窓から街中を見渡すと、1ヶ月前のニュージーランドでの大地震のようなビルの倒壊は見当たらなかったが、隣の事務室ではキャビネットの書類は飛び出し、両袖机が50cmもずれるような有様で、市内では多くの怪我人が出たのではないかと思われた。
 ただ、本社社屋にも社員にも特に目立った被害はないようだったので直ぐに古川の支社に戻ろうと県北に向かう車に相乗りしたが、市内は大渋滞となっていてピクリとも動かない。30分乗っていても300mも進まないので車を降りて旧国道4号線を北に歩き出した。歩きながら、車のラジオで何度も聞いた「10m以上の大津波が予想されるので直ちに高いところへ避難してください」という警報のことを考えたが、まさか10mの津波なんてと全く本気にはしていなかった。だって三陸大津波の惨事を踏まえて造られた志津川の防潮堤でさえ高さは6mなんだから。

 1時間半かけて泉区の自宅にたどり着くと家の中は滅茶苦茶だったが家族は全員無事で、近くに住む義母も無事、泉中央の高層アパートの6階に住むじじばばの安否はリョウヘイに自転車で行ってもらい夕方には無事が確認できたので正直、ホッとした。
 家族の無事を確認したので、着替えをたくさんカバンに詰め込んで自家用車で古川に向かおうとしたところで携帯電話が鳴った。何度かけても何処へもつながらなかった携帯電話だったが画面を見ると職場からで、無事か?無事なら今日は家族の面倒や家の片づけでもしていろ、そして明日出てこいと言われたので、ありがたく散乱した家財の片づけを始めたが、すぐに辺りは暗くなった。
 電気もガスも水道も使えず、一人暮らしの義母が心細いだろうからと家族4人で義母の家に泊まったが、暗がりの中でラジオを聞くとすごい津波が太平洋沿岸の各地を襲い、どこの町も壊滅的な被害をもたらしたという放送が繰り返され、俄かには信じられなかった。特に、津波が若林区の区役所まで届いたというニュースには、まさか!?という感想しか頭に浮かばなかった。
 まさか。仙台東部道路を越えて、国道4号線も越えて、南小泉まで津波が届くなんて、まさか。そんなパニック映画みたいなことが起こるなんて何かの悪い冗談だろうと思いつつバッテリー残量の少なくなった携帯電話のワンセグでニュースの映像を確かめると、大津波が荒浜を飲込み、六郷や七郷も次々と飲込んでいく映像が映し出された。言葉を失う光景だった。
 また、若い時分に勤務した気仙沼や石巻の惨状も目を覆いたくなるばかりだった。当時お付き合いのあったみなさんは大丈夫か。気仙沼の鹿折の火災はあの人の家も、あの人の家もみんな飲込んでしまったのではないか。嗚呼、なんということだ。ため息しか出てこなかった。

 翌朝、大崎市古川の職場に出た。ほとんどの職員が職場で一夜を明かし、朝早くから被害の確認や本社との連絡調整に当たっていた。沿岸部の比ではないが、大崎管内でも死者は出ていた。幸い支社が関係する施設や人員に大きな被害はなかったが、家族や親族で被災した者は少なからずおり、そんな連中の机は空席になっていた。
 今回の災害対応は当然、最高レベルの「レベル3」で全職員がその対応に当たることになっていたが大崎管内の被災は比較的小さかったため、被害が甚大な沿岸部、特に石巻方面の応援に回れという本社からの指示が伝えられた。が、沿岸部の詳しい被災状況が分からない中では動くに動けず、石巻に先遣隊を派遣しただけで、その日は管内の関係先の被害確認と応援物資配送の準備にとどまった。
 被災後二夜目も5割の職員が職場で待機した。各自毛布にくるまってソファーで寝たり、寝袋に入って仮眠をとったが、毛布も寝袋も準備してこなかった私は防寒着を重ね着したが寒くて寝ることができなかった。

 三日目になると本社から応援物資が届き始め、それらを沿岸部の被災地に配送する仕事が本格化してきたが、それに伴い運搬車両のガソリン不足が大きな問題となった。本来ならそれは総務部の仕事だが、契約しているガソリンスタンドにガソリンが入らない、市内のほかのスタンドにもないというだけで次の手を打てない総務部の対応に支社長がしびれを切らし、お前の部で調達してこい!と命令が下った。
 よし、やるぞ!と部下9人を集めてアイデアを出し合い、とにかくダメもとで行動するぞと叫ぶと、例によって屁理屈語りの次長が何だかんだと言い出したので、そんならオレが行く!と自ら市内のあちこちを回り、とりあえず1カ所を恒常的に押えることに成功した。(ふん、ざまあみろ。こういうときは理屈じゃねえんだよ。と意気がったが後で次長に仇を取られる。)

 三夜目は部下を3人乗せて一度仙台に帰り、会社での泊まりを少しでも快適に過ごそうと寝袋や毛布、トレパンなどを準備して翌朝、昨夜の3人をピックアップしながら出勤した。また、職場に泊まった社員への差し入れ用に、妻に握ってもらったおにぎり10ケと缶詰や果物を持参した。
 大概の社員は家に帰ると次の日は泊まった者のために何かしら差し入れを持ってきてくれるのだが、箸にも棒にもかからない係長Sはいつも何も持ってこない。また、多くの部下が職場にとどまることを選ぶのに、Sだけは直ぐ仙台の自宅へ帰ろうとするので見かねて、食糧不足の折、自宅に戻った者は率先して差し入れを持ってきてくれと話すと、トタンに帰りたいと言い出さなくなった。ホントにイヤな男だ。
 ちなみに、この男には他にもたくさんガッカリさせられている。誰だって応援物資の荷造りや積み下ろし作業は疲れるからサボりたくなるが、係長のクセにいつも真っ先に休むのだ。
 大量の荷が届いたので支社の職員総出で作業をしていた時も、正午になってS係長は部屋に戻ってきたが、他の職員は誰も戻ってこない。10分が経ち15分が経っても誰も戻ってこないので「おい、まだみんな作業してるんじゃないのか」と声をかけると、エッ、あっ、と言って部屋の中をキョロキョロするばかりなので、下に行って見てこい!と怒鳴ってしまった。それまで係長は自分でお茶を入れてのんびりと新聞を読んでいたのだ。
 ウチの部には3人の女性がおり、非常時になってからは毎回女性陣が差し入れのおにぎりやおかず類のほか、カップスープなどの温かいものを作ってテーブルに並べてくれるので、みんなはそれを待ってテーブルを囲んで一緒に食事をするようになっていたが、どうやら係長はそれを待っていたらしい。しかし、何で一人だけサッサと現場を離れて戻って来るかなあ。私にはまったく理解できない。女性3人もまだ力仕事をしていたというのに。
 なお、部長の私も機会の半分は次長を席に残して力仕事に従事している。次長は管理職風を吹かせて何だかんだと言っては力仕事には行かないのだ。若いくせになんか情けない。
 ああ、そういえばS係長にはこういうこともあった。係長が夜泊まるときは事務室内では寝られないと言って自家用車のワンボックスカーにフトン一式を用意して一人で駐車場で寝ているのだが、深夜に応援物資が届き重い段ボール箱を1400個も荷降ろししなければならなかった時も、係長は一人知らずに朝まで寝ていたのだった。腕がみんなパンパンになったのにね。まあ、この時は仕方がない面もあったが、でも一事が万事この調子なのだ。いつも間が悪いし、その原因の多くは係長自身にあるのだった。
*S係長はとても影が薄いので夜中の荷降ろし作業中、いないことに誰も気付かなかったというのがホントのところで、まあ、そんなヤツなのだった。

 平時には見えなかったものが非常時になるとよく見えてくることがある。特に社員の人間性はつぶさに明らかになり、献身的なヤツ・利己的なヤツ、いいヤツ・悪いヤツがS係長ばかりでなく、面白いように分かるのだった。
 石巻方面への応援に各部から数名を選抜することになったときも真っ先に手をあげるヤツらがいる半面、そういう前向きな奴らがいなくなってから第二陣を選抜する時は、互いに顔を見合わせていつまでたっても決まらない。家庭の事情があるならちゃんと説明してくれればいいのに押し黙って誰も何も言わない。ただ面倒な事をしたくないだけなのか?業を煮やして、じゃあ俺が行くというと、部長がいないのはいくらなんでもまずいからじゃあ、○○君、行ってきてくれ、とりあえず2泊3日ね、と次長が調整する。こんなことが何度もあった。
 なんでこんな未曾有の災害が地元で起こっているのに積極的に関わろうとしないのか。私は能力的に部長職に相応しい人間かと問われれば、人前で満足に挨拶もできないし思考回路が単純で正直劣っていると自覚しているが、それでも部長に就かせてもらっているのは少なくとも真っ先に手を挙げる積極性があり、それが評価されているように思う。
 しかし、大所帯の企業に身を置くと、優秀なくせに事なかれ主義になる者が多くて悲しくなる。チャレンジするよりもミスをしないこと。判断は常に上司や部下、同僚にゆだねて最終的な責任を取る立場にはなるべく立たないよう上手に振る舞う。そんな連中ばかりなのだ。若い連中は自信がなく、中年以上は保身が先に立つ。
 そういう私も能力不足で事案によっては手を上げられず、後から恥じることも多いが、ただ今回の大災害においては、そっちの仕事、あっちの仕事とは言っていられないので、できません、ウチの部の仕事じゃありません、とは絶対に言うまいと決めて支援活動に取り組んでいる。部下は迷惑だろうが、たぶん、私が一番、力が入っている。

どーしてそーう、なるのかな!?

 コント55号の坂上二郎さんが脳梗塞で亡くなった。76歳だったという。
 コント55号は私が小学校時代にブレイクしたコメディアンで、当時はザ・ドリフターズとともに、くだらない笑いをまき散らす不届者として全国のPTAから目の敵にされたほどの、すごい人気者だった。
 私より前の世代にとってお笑いグループと言えば、クレージーキャッツなのだろうが、私にはあまりその面白さが感じられなかったし、青島幸男や大橋巨泉、前田武彦などもよく分からなかった。
 それと同じように、私よりも若い世代にはコント55号やドリフターズの笑いは分からないかもしれない。私も最近のM-1などでは笑えない場面があるので「お笑い」はその時代の空気の中で生まれてくるものなのだろう。
 時代を上手に読んでいつまでも笑いの分かる男でいたいが、でも時代は急変し、何が善で何が悪なのか。携帯電話を使ってカンニングすることに罪悪感はないのか、スーパーで見知らぬ幼児を誘拐し絞殺して遺棄したのは異常者だからの一言で片づけてしまっていいのか、理解しがたいことばかりだ。
 コント55号ではないが「どーしてそーうなるのかな!?」
 こんな世の中は冗談だと、笑い飛ばすか、怒り散らすか。 

中国人観光客

 東北の観光に関するフォーラムを聞きに行った。香港や台湾の旅行客の動向に詳しいパネリストの一人は、いま東北に関心を寄せるアジア富裕層は確実に増えているという。10年前に台湾の旅行エージェントと話をしていたら東京の北は札幌でしょ、その間には山しかないじゃないと言われたそうだが、現在のアジア富裕層は「ショッピング」に次いで「癒し」を求めて旅に出るようになり、身近に山や海があり、四季がある日本の田舎は大変に素晴らしい、特に手つかずの自然がたくさん残っている東北はいい、と受け止められているのだそうだ。
 仙台は近代中国の礎を築いた魯迅(ろじん)の留学先でもあり人気があるという。泉ケ岳の雪や定禅寺通のケヤキ並木、文化横丁などの路地裏を案内するととても喜ばれるらしい。ふ~ん、そういうものか。ないものネダリというヤツかな。
 まあ、それでも宮城にお金を落としてくれる人たちがいるのだから、ちゃんと対応すべきなのだろう。最近は鳴子温泉でも中国人観光客が増えたというし「熱烈歓迎!」と行きたいところだが、いま読んでいる「この厄介な国、中国」という本に書かれている中国人が本当の姿だとしたら、ちょっとお付き合いは遠慮したい気分だ。

 この本「この厄介な国、中国」に書かれている内容は実にショッキングで10ページ読み進むたびにエッ、そうなの!?と心底驚かされる。その驚きを詳しく語りたいところだが、驚きが大き過ぎてなかなか咀嚼できない。もう少し落ち着いてから改めて意見を述べてみたいと思う。
 ちなみに、目次には 第1章:外交問題はすべて内政問題 第2章:他人はすべて敵と考える民族 第3章:現代中国語は日本語から作られた 第4章:中国近代化の原動力・秘密結社 第5章:集団の行動原理なき国、といった項目がならび、一見、週刊誌的だが、中身は読み応え十分だ。
 中国人は漢文が読めない(読めるけど意味が分からない)という話には思わずのけぞってしまった。

PS
 久しぶりに県内で震度5弱の地震があった。船の中でゆっくり揺られるような長い揺れの地震だった。60cmの津波が鮎川で観測された。新幹線が1時間ほど遅れて仙台で行われたフォーラムの開会に間に合わなかった。

 庭の梅の木に花が咲いたと妻から教えられた。
 まだ二分咲きだが確かに咲いている。こんなに寒いのに。
 草木には分かっているのだろうな、春が近いことが。

 今夜はこの3月末で退職する支社長の送別会だった。
 まだまだやり残したことがある、アレもしたかったコレもしたかった、それなのに君たちは甘すぎる!もっと仕事に立ち向かえ!と吠えていたが、最後の最後までそんなことを言わなくてもイイのに。老兵はただ消え去るのみ、というような潔い心情にはなれないものか、と半分嫌気がさした。
 たぶん出席していた全員がそう思ったと思うのだが、4月からは有力な関連会社の取締役で天下ると発言したトタン、ウチの次長なんか手のひらを返したように媚びへつらい、二次会にへこへこと付いて行くのだった。オレはいやだね。

PS
 翌日、その次長が言うには、一次会の寿司屋を出たら4人しか残っていなかった、みなさん薄情ですよ、退職祝いなのに、ということだが、私はあと2回、支社長とは酒を飲む機会があるから遠慮したの、なんか悪い?

街並み

 仙台駅を発った下りの新幹線から見える仙台の街並みは、残念ながら非常に汚い、と思う。薄汚いコンクリートのビルが何の脈略もなく乱雑に並んでいるだけ、にしか見えない。いつからこんな汚い街になってしまったんだろう。今朝が特に曇り空で、空気も澱んでいるように感じたせいかもしてないが、でもやっぱり、美しくない。
 経済活動が停滞し開発が止まるとどこの町でも、どこの国でも、こうなってしまうのだろうか?せめて街の手入れができる程度の経済成長は維持したいものだが、そもそもコンクリートの建物がそれなりに「見られる」期間は非常に短いし、そのくたびれたコンクリートだらけの街並みを美しく装うことなど、できるのだろうか?
 こんなきれいでもない街に、ホントに海外から観光客を呼び込もうとしているのだろうか?何を見てもらうのだろう?(ひょっとして、仙台駅前で家電製品を山のように買ってもらえればそれでイイのだろうか?)
 JR仙台駅も、宮城県庁も、仙台市役所も、街のランドマークなのに全然、愛着がわかない。写真を見てぜひ一度訪れてみたいと思う人など誰もいないだろう。定禅寺通の「仙台メデアテーク」はケヤキ並木にもマッチしてモダンな建物だという人がいるかもしれないが、100年先まで残したい建造物かと聞かれれば、ハイとはなかなか言いづらい。市民の建物ではなくて建築家の自己満足の産物、にしか見えない。
 残したい自然はあるのに、残したい街並みや建造物がないとはいったいどうしたことか?仙台という街を形作ってきた人たちの日々の営みはいったい何だったのか?と新幹線の車窓から仙台の街並みを見て柄にもなく、そんなことを考えた。

帰宅時間は?

 朝、7時半に家を出たナミヘイが帰ってきたのは夜の8時過ぎだった。部活は午前中だけのハズだったが、母親に弁当を作ってくれと言っていたので部活後に友達と遊ぶのだろうとは思っていたが、日曜日の夜の8時過ぎまで遊んでいるなんて。
 いくら定期試験が終わったばかりでも週末課題も終わらせていないくせに、そして帰ってくるなり頭が痛い、宿題なんてできない、明日は学校を休むといけしゃあしゃあと言うのだから、まず妻がキレた。当然だ。
 ナミヘイは妻に似て気が強いくせに身体が弱く、一日中外で遊び呆けていると決まってひどい頭痛を引き起こし寝込んでしまう。これまで何度も何度も経験しているので、毎回、妻は早く帰ってこい、夕方には帰ってこいと忠告するのに今回もまた同じ轍を踏むのだから、許せないというか、憤りを感じるというか、バカかオマエは!と怒鳴りつけたくなるのだった。さらにその上、頭が痛いから学校を休むだとおー!?絶対に許さん!!この大馬鹿者!!!
 
 そんな中、妻のつまらない一言がリョウヘイまで爆発させてしまい、のんびりしたい週末の夜がメチャクチャになった。あ~あっ、オレだって休日出勤で古川まで行って疲れて帰ってきたんだからサ。頼むから静かにしてくれ、と思ったのは最初だけでリョウヘイが親に盾を突いた時点でバトルに参戦してしまった。あ~あっ、今週は一週間が長いな。

Jリーグ19回目の開幕戦

 サンフレッチェ(昨年7位)との開幕戦は惜しくも引き分けに終わったベガルタ仙台(14位)だが、得点を期待させる攻撃で見ていて久しぶりに楽しかった。毎回こういうゲームをしてくれるとスタジアムまで応援しに行きたくなるというものだ。次節は昨年の覇者グランパスが相手だが、ホーム初戦でもあるし、是非とも頑張っていただきたい。(リャンと関口が消えていたのが残念。サイドバックの上がりもなかったし)
 グランパスと言えども、この前のACLでは中国のチームにいいところなく敗れたわけで、決して敵わない相手ではない。試合がこう着したらどんどん手を打っていけばいいのに、代えることによってバランスが崩れるのを必要以上に恐れる手倉森監督は今日の交代もやっぱり遅かった。去年までならスターティングメンバーとリザーブの選手の力の差があって代えられなかったのかもしれないが、今年は比べものにならないくらい優れたリザーブがそろっているのだから、仕掛けなきゃダメだろう。やっぱり、手倉森監督って大したことないんじゃないか?
 なんて軽口を叩きながらナミヘイとテレビを見ていて、昔のヴェルディのラモス選手は凄かったという話をしたが、ヴェルディって何?ラモスって?という反応だったのでYouTubeでラモスの華麗なプレー集を捜して見せたら、おーすげーすげーと興奮していた。ふん、どうだマイッタカと鼻息が荒くなった。
 でも、ホントに久しぶりに見たラモスのプレーは凄かった。ワルツを踊るように華麗なステップで敵のマークを外してドリブル突破するその姿は実にカッコよかった。いまのJリーグにはいないタイプだ。いまの選手たちは真面目にパスをつなぐだけで全然魅せるプレーがない。華がない。残念に思う。もう一度、ラモスやカズのような華麗なプレーをする日本人選手(実は二人ともブラジル人?)は現れないものか。20年に一度では待ちくたびれてしまうぞ。

食卓での会話

夕食を食べながら妻に尋ねた。
私「明日は午前中にスポーツクラブに行く?」
妻「明日は午後から仕事」と答えが返ってきた。

 これを行く意思表示と取るか、行かない意思表示と取るか。
 私は妻の言い方から「明日は午後1時から仕事なんだから午前中には行っていられない」という風に受け止めた。でもホントはどうなのか答えを待ったが、次の言葉がなかなか出てこない。イライラして「ちゃんと答えろよ。行くのか行かないのか。」と言うと、妻はキレた。
「花粉症で鼻がつまっているの。だから口に食べ物が入っていると息ができないの。いっぺんに話せないの。なんで少しぐらい待っていられないの!」と怒る。
「じゃあ、結論からまず話すべきじゃないのか。」と言うと、ますますキレた。
「私は順を追って話したいの。それにあなたが土曜の午後は私が仕事だって忘れているんじゃないかと思って、まずそのことを話したのよ。私はいつも肩こりがヒドイから毎日でもジムに行ってジャグジーで肩や腰を温めたいのよ。いつも言っているでしょ!」と叫んだ。
「オマエが土曜の午後は仕事だって事は知ってるよ。だから、午前中に行くかと聞いたんだ。それに、オレが何かを話そうとしてその背景から話し出すと、いつも途中で話をさえぎって、で何が言いたいの?あなたの話は廻りくどい、ってオマエはいつも言うじゃないか。自分でサッサと話せと言っておきながらナンデ自分はやらないんだ。」と言い返すと「オマエって言わないでっていつも言ってるでしょ!イヤなの!」とさらに吠えた。
 そのやり取りを脇で聞いていたリョウヘイが珍しく口を出すので、てっきり「うるさいなあ、もうやめてよ」とでも言われるのかと思ったら「お父さんの方が理屈が通っている。まず行くか行かないかを答えるべきだよ。そのあとで理由を言えばいいじゃないか。母さんはいつも自分が正しい、自分のいうとおりにしろ的にモノを言うし、だからなのか、前と違うことを平気で言うことが多いよね。」と援護射撃をしてくれるではないか(おー、いいぞいいぞ、もっと言ってやれー)。
 しかし、妻もへこたれない。「あ~あっ、ウチには男しかいないからお母さんの気持ちなんて誰も分かってくれないのよ。職場でパート仲間のおばさん達から、男しかいないんじゃ大変でしょっていつも同情されるワ。ホントそのとおりネ」と言い返してくる。う~ん、素直じゃないな。まるでナミヘイのようだな。この母にしてあの子、だな。
 それに対してリョウヘイは「男だからって考え方は違うし、父さんの気持ちなんか分からないよ。」といつもとは違って真っ当なことを言うではないか。会話が成り立っているので感心してしまった。なあんだ、オマエもちゃんと話せるじゃないか。普段はバカ丸出しなのでこの程度の会話でもちゃんと成立すると大変に嬉しい。リョウヘイも少しは大人になったか。まあ、今夜はリョウヘイの仲裁に感謝してココまでにしておこう。
(ホントはリョウヘイも加わってバトルはまだまだ続くのだが.....)

PS
 日曜日に出勤するので、その代休を午後から取った。誰もいない家に帰ってすることもなかったのでCSでやっていた映画を、昨日の残りのケーキ&コーヒーをいただきながら観ていたら、いつの間にか夕方になっていた。あらら。
 観ていたのは「マーシャル・ロー(戒厳令)」(98)という映画。テロがはびこる殺伐とした社会を描いたサスペンス映画で非常に疲れた。

ひな祭り

 仕事で秋田県の湯沢まで行ってきた。宮城県と秋田県を結ぶ県境の鬼首トンネルの前後はすごい雪の量で、帰りに立ち寄った秋の宮温泉郷でも1m以上は積もっていた。
 秋の宮では国道108号沿いの「鷹の湯温泉」でお風呂に入った。右腰が痛いと言っていたのを部下が覚えていて気を利かせて寄ってくれたのだ。ココは日本秘湯を守る会の会員だとかで、期待に違わぬとても良い温泉だった。お風呂もあちこちにあり探検気分が出て面白かったが、ただ移動には必ず階段を上り下りしなければならず、足腰のおぼつかない80歳のジジババには向かない温泉で連れて来れないのがちょっと残念だ。

 家に帰ると妻が例年のとおり、お雛さま仕様の豪華な夕飯(カニ+マグロちらし)を用意していた。さらに勤め先からはケーキの「端」を色々いただいてきて(?)それにフルーツを盛り合わせて食後は豪華なケーキ&フルーツバイキング風にして食べた。おっと、その前に甘酒を飲んで桜餅と道明寺も食べていたので、そりゃあ腹もふくれるワケだ。
 身体的には(たぶん)悪いけど、気分的には満足です。右腰&右臀部は痛いけど。

借りた本

「ソニーはなぜサムスンに抜かれたのか」菅野朋子(11.01) ここ10年ほどの間に朝鮮日報に掲載された日本に関する社説からそのヒントを示そうとするが、簡単に言うと決断までのスピードが違う!ということを言いたかったようだ。それにしても韓国は日本に対してなんでそんなにムキになるのか。社説にまでその思いが満ち溢れているので驚く。過去の侵略者を許さないという心情なのだろうが戦後65年が経ち実際に傷つけられた人たちはすでに少数派なのだろうに。いつの世も隣人とは仲良くなれない、ということか。
「完成版 広重の富士」赤坂治績(11.01) 非常に面白かった。ただ新書サイズだったので画版が小さく、かつピントが少し甘いのが残念だった。
「佳代のキッチン」原宏一(10.12) ハートウォーミング・ストーリーで、そのうちテレビドラマになるのではないかという感じの本だった。この作者の本にはアタリハズレがあって「東京箱庭鉄道」はワクワクしたが、初期作品の「床下仙人」は非常に読後感が悪かった。
「大人の社会見学 行って、見て、聞く」江上剛(10.06) 普通ではなかなか行けないところに潜入して、こんな仕事もあるんだ、お父さんたちはこんなに頑張っているんだ、ということを教えてくれる本。ふ~ん、という感じで面白い。

「広重の富士」

 いま「広重の富士」という本を読んでいる。歌川広重が生涯に数多く作成した富士山を描いた浮世絵を丁寧に解説している本だ。江戸庶民に愛された富士、名所から仰ぎ見る富士、四季折々の富士、と様々な視点で広重がとらえた富士山を紹介している。
 そこには本当に美しい日本が描かれている。見ていてタメ息が出る。そして驚く。この絵がわずか150年前の日本の風景なんだということに。
 それに引き換え、現代の風景に美しさはあるだろうか。日本人が日々の生活の中で作り出した建造物や街並みは美しいか。100年先まで残しておきたいと思えるようなモノが何かあるだろうか。
 大崎の田園風景は美しい。五月、田植えを終えた水田越しに見える残雪を抱く栗駒山はとても美しい。秋の紅葉も美しいが、でもそれは江戸時代と同じ風景の美しさであって、それもどんどん、どんどん余計なモノが入りこんで美しさが損なわれつつある。大変に残念なことだ。
 広島に行ったとき、厳島神社から海に浮かぶ鳥居を見て平家一門の栄枯盛衰に思いをはせたが、その向こうに見える山並に白いマンションを見たトタン、興ざめた。コンクリート造りの四角いマンションやビルディングはどう頑張っても美しくない。絵にならない。どこも同じようなロードサインが続く都市近郊の風景は醜悪ですらある。
 と嘆いても仕方がないが、日本の景気が持ち直したら、是非とも景観に配慮したまちづくりにお金をかけてもらいたい。古代ローマの街並みを眺めに全世界から観光客がいまでもイタリアを訪れるように日本でもルネサンスを進めてほしい。日本にしかない景観を作り出してほしい。よろしく頼みます、為政者のみなさまへ。
 というか、日本人全体の感性の問題かな。それがデザイナーや建築家にも共有されないとダメか。道のりは長いが、まあいつの日かきっとコレではいけないとみんなが気づいて変革のときが訪れるだろう。気長に待とう、ホトトギス。

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Author:yyrn
戌年生まれ。南小泉で生まれ育ち、結婚して榴ヶ岡で賃貸暮らしを始め、子供が生まれて仙台の北の丘陵地帯に移住。強烈な宮城県沖地震を経験し、あまりモノには固執しなかったはずが、一生アパート暮らしも淋しいかと13年前に北の丘陵地帯に中古の家を購入。そこで庭いじりでもしているハズが3月11日に大震災を再び経験。幸い家族や我が家には被害はなかったが2万人が亡くなった大震災だ。この経験を無駄にしてはならないのだが・・・・
*写真は震災前の網地島の白浜海水浴場

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